グッド・バイ、ミスター・ドラゴンズ

先週、完全に酔った勢いでドラゴンズへの思いを書きなぐってしまった。数日経って読み返すと恥ずかしいほどの乱文、乱筆、情けない限りである。

 

その翌日、ミスター・ドラゴンズが逝ってしまった。高木守道

正直言ってよしのにとってのミスター・ドラゴンズとは立浪和義であり、高木監督(よしの的にしっくりくるのは高木「監督」なのでそう呼ぶが)はそれよりもドラゴンズOBの「ドン」であり、月刊ドラゴンズでのコメント等を読んでも、中日ドラゴンズという球団に対してまさに一家言ある存在として認識していた。

 

高木監督の名シーンとしてしばしば取り上げられるのは「10.8決戦」であるが、この当時よしのは受精卵にすらなっていないのでよく分からない。ただドラゴンズが優勝まであと一歩のところまで至ったが、にっくき長嶋ジャイアンツにお株を奪われたのだ、そして立浪はヘッドスライディングで脱臼し、その後も肩の痛みを引きずりながら闘っていた、ということの重大さはよく分かっているつもりだ。

 

よしのが当時中学生だった昔、高木監督が落合監督の後任として発表された時には正直に「あの高木守道がついにヴェールを脱ぐ!!!」と思った。落合監督就任時も思ったが、とにかく現役当時をよく知らない名選手が、ドラゴンズの監督になるということはそれだけでもよしのにとって大イベントだった。そして発表されたスローガン「Join us ~ファンと共に~」、落合監督は勝てるけど面白くない(よしのはファン側の立場としてなんでもいいから勝ってくれと思っているが・・・)と「一般には」言われていたが、ファンに寄り添ったチームを作ろうとしてくれた高木監督、その姿に初めてよしのは、ファンとして思いを寄せることができたのかもしれない。そして尊敬していた落合監督が退任しても、高木ドラゴンズに胸躍っていたのかもしれない。

 

新生高木ドラゴンズの結果は1年目に2位、2年目に4位であった。1年目は讀賣にCS3連勝を果たしたが、その後3連敗で日本シリーズへの夢を断たれた。CS2ndのあの時も、「10.8の再来」と騒がれていたことを覚えている。そして監督2年目に、久々のBクラスに落ちて高木監督は退任した。ナゴヤドームでの退任挨拶のときの、あの心無い野次をよしのは怒りと共に記憶している。ドラゴンズ一筋で現役を戦い、引退後もドラゴンズにこれだけ尽くしてくれた、そんな高木監督を野次で送り出すなんて、よしのは到底許せなかった。

ホークスファンだった中学校の担任の先生から「耄碌おじいちゃん」と揶揄されても、退任時の野次を聞いても、投手コーチの権藤さんやイマチュウと、そして中心選手の井端と喧嘩していても、よしのは高木監督を悪く言う気になれなかった。それもこれも、高木監督がドラゴンズを象徴する存在であることをよしのは本能的に知っていたからではないかと、今になって思う。

 

ドラゴンズ一筋、V9を止めた時の優勝メンバーとしての印象は強いが、監督として優勝は一度もできなかった。1度目の監督は星野仙一の後だった。2度目は落合博満の後だった。押しも押されもしない「ミスター・ドラゴンズ」でありながら誰もやりたがらない彼らの後任をやってくれた。1度目は10.8決戦、2度目はCS2nd最終戦、あと一歩というところで栄光はスルリとすり抜けた。「何か持っていない人」と思われているかもしれないが、一度でいいから、その悔しさを晴らす姿が見たかった。

 

高木監督の訃報を知ったのは、祖父の一周忌のために帰っていた実家でのことであった。今頃冥土のよしのの祖父や父からサインや握手をせがまれているのだろう。ドラゴンズ一筋、幸せな野球人生だったとあの世で振り返っていてほしい。

 

高木監督のためにも、今年のドラゴンズは優勝しなければならない。今年の胴上げは高木監督と一緒にやろう。

 

ミスター・ドラゴンズ、安らかに。