Exile on Main St. について

 The Rolling Stones研究に昨今余念のないよしのであるが、フェイバリットを挙げるとすればこのアルバムである。理由はたくさん曲が入っているから。長距離のドライブの時などはこれをダラっとかけながら運転することも多い。

 そもそも好きなバンドのフェイバリットを一つに決めるのは一般的に相当難しく、よしのにとってもまたそうである。The Beatlesはもちろん毎日変わるし、AC/DCも好きなアルバムを1枚選べと言われれば答えに窮してしまう(もっともAC/DCの場合どのアルバムも似たような曲が入っている、というのが理由の一つかもしれないが…)

 しかしStonesの場合は結構明確に決まるというか、少なくともトップ5は(順番はともかく)よしのの中で大体固定されている気がする。

 

 基本的に彼らのディスコグラフィーで名盤とされるのは所謂「黄金期」、若き天才Mick Taylor加入前後の4枚であるBeggar's Banquet→Let It Bleed→Sticky Fingers→Exile〜となるし、この4枚だけ聴いておけばいい、といった言説もちらほら見聞きする。よしのは歴代の3人のギタリスト全員を等しく愛しているので、Taylor在籍時のみをフィーチャーした聴き方をするのは勿体ないと思ってしまうの(正確にはBeggar's Banquetの時はBrianがいるのだが、No Expectationsを除いてはこのアルバムで存在感を発揮する場面はあまりない)だが、少なくともStonesの膨大な作品の中の「どんな感じ」が好きなのかを判断する材料としてはこの4枚はうってつけだと思う。

 

 先の4枚をよしの流で大雑把に分類するとすれば、Beggar's BanquetとExile〜が「ぐちゃぐちゃ系」、Let It BleedとSticky Fingersが「すっきり系」となる。概ね彼らのディスコグラフィーはこうして分類できると思う。例えばThe Satanic Majesty's RequestやBlue & Lonesomeなどは前者、Tatoo YouやSteel Wheelsなんかは後者だと思っている。この辺の分け方は主観がだいぶ入ってしまうであろう領域なので「ふ〜ん」くらいに思っていてもらいたい。あと基本的に彼らは世間一般的にかなりの「ぐちゃぐちゃ系」バンドである。

 

 お察しのとおりよしのはどちらかといえば「ぐちゃぐちゃ系」支持派閥なのであるが、そんな深遠なStonesサウンドの典型であるExile on Main St.全曲のよしの流解説をここから展開しようと思う。これから聴いてみる人たちのライナーノーツになってほしいし、Stonesファンの皆さんにとってはご自身との印象や見解の違いを感じてほしいところである。

 

☆Side 1

1. Rocks Off

 1曲目っぽい曲である。最近でもライブの定番になっている曲だ。わかりやすくキャッチーなリフと歌なので曲調としてはこのアルバムのカラーからは若干浮いている気がしないでもないが、コーラスがどうなっているか分からないくらいぐわんぐわんとしているし、ギターも結構重なっている。ミドルの部分でも全体にうっすらフランジャーがかかっているなど仕掛けも多く、サウンド面ではこのアルバムを象徴するような曲に仕上がっていると思う。とっつきやすい曲なのではじめてのStones体験にもうってつけだと思う。

 余談だがこの曲でKeithは手に入れた(もらった)ばかりのテレキャスター、あのMicawberを使っているというデータをどこかで見た。出てくるギターは全てレギュラーチューニングだと思うので、もしかしたらこの曲ではあの5弦オープンG仕様になる前の彼の貴重なサウンドを聴けているのかもしれない。

 

2. Rip This Joint

 とにかくゴキゲンなブギー。というか本当に勢いのままに突っ走って終わるのでそれ以上の感想が持てない…というのが正直なところ。サックスのソロが入っているのがこのアルバムらしいという感じか。Side 1は切り込み隊長という感じのパートでよいと思うので、最初の2曲でツカミはバッチリ。ライブバージョンは本当にカッコいいので一聴の価値あり。

 

3. Shake Your Hips

 やっと一息つくタイミングでやってくるカヴァー。原曲はSlim Harpo。ホーンやらハープやら結構忠実に再現していると思うのだが、全体的に結構リヴァーブがかかっていたりと原曲に比べてかなり濃いめの味付けがされている印象がある。多分スネアのリムか何かだろうが、ずっと後ろでカチカチ言っているのも妙に耳に残る。リヴァーブのかかった音像とは対照的にギターはすごくソリッドでカッコいい。

 

4. Casino Boogie

 ねっとりとしている。Stonesらしさはこのねっとり感だと思う。Mickの歌い方がかなりねっとりとしているのがまずもっての印象を決めているのだろうが、ベースがダルそうに全体のリズムに絡みついているのが前面に出ているのにも気づく。まさか…と思ったらやっぱりベースもKeithによるものだそうだ。彼らの曲でベースに耳が持っていかれるときはいつもそうなのである。ここまでの4曲だけでもルーツミュージック博覧会の様相が濃い。

 

5. Tumbling Dice

 スーパー代表曲。よしのが一番好きな曲と言っても過言ではない。コーラスが分厚く入っていたりというところはファンの中でも好みが分かれるところではあろうが、よしのは案外こういうゴスペルっぽいのも好きなのだ。

 最初の勢いのある2曲もいいが、個人的にはこのくらいのテンポの曲が一番ツボなバンドなのではなかろうかと思う。この曲でKeithは完全にプレイスタイルを確立した感があるが、印象的なのはTaylorのちょっとヘロヘロとしたギターの音だったりする。お願いなのでライブのときのエンディングはもう少し短くしてください。

 

☆Side 2

1. Sweet Virginia

 Side 1とは打って変わってアコースティックサイドである。ギターの絡みとハープが心地よいカントリーソングだが、ちょっとオフ気味のMickのヴォーカルが肩の力の抜けた感じをよく表現していて個人的には気に入っている。サビのコーラスはやっぱり分厚いし、サックスのソロが入ってきたりと、彼ら流のカントリーは泥臭い要素がたっぷりとしているのだ。

 

2. Torn And Frayed

 知名度では前曲に及ばないものの隠れ名曲だとよしのは思う。隙間で入ってくるおそらくTaylorの控えめなリフも好きだが、この曲の転がっていく感じは随所に聴けるCharlieのフィルインによるものが大きいのではなかろうか。あまり起伏のない曲ではあるので特に印象的である。このバンドの最大の武器であるドライブ感の源泉がKeithとCharlieの間に確固として存在することを知らしめてくれるのは案外こういうタイプの曲だったりする。

 

3. Sweet Black Angel

 歌メロもギターのリフもキャッチーでとても覚えやすい。ギロやカウベルがギコギココンコン鳴っていてちょっと面白い。要素の多い曲が続く中ようやく出てきたあっさりとした曲で、いつもこの曲に来ると安心するものだが、シンプルな進行の中でふとした瞬間にマイナーコードで陰影がつくところが地味な聴きどころである。

 

4. Loving Cup

 いきなり出てくるピアノがフィーチャーされた曲。綺麗な曲という印象ではあるが、これがなかなかどうしてギターがガリガリ言ってたりドラムスの16ビートやフィルインイカつかったりとロックイディオム全開の曲でもある。ミドルからの♪What a beautiful buzzの部分が聴きどころだと思う。前曲に引き続きMickのヴォーカルにKeithが上でハモるのがメインの曲となっているが、この時期のKeithは本当に可愛い声をしている(今となっては…だが)。

 

☆Side 3

1. Happy 

 起承転結の「転」にあたる第3面は言わずと知れたKeith Richards最大の持ち歌からスタート。彼のギターの音でベストとされているのはStart Me Upだと思うが、個人的にはこの曲のイントロの音がNo. 1である。この時期のKeithは本当に可愛い声をしている(今となっては…だが)。ライブで正確に再現されているのを見たことがないが、間奏の尺がちょっと変わっている。

 この曲の白眉はアウトロが近づくにつれて存在感を増していくMickのヴォーカルだとも思っていて、やはり彼の声は卓越した存在感があるのだと思い知らされる。


2. Turd On The Run

 おそらくこのアルバム中最も影が薄い曲だろう。ゴツめの2曲に挟まれているのだから当然と言えば当然ではあるが。単調ながら同じリフの繰り返しでトランス状態に持っていくのは彼らの得意技だが、それが存分に出ているので小品ながら結構好きな曲ではある。ある意味ではこのアルバムのカラーを最も色濃く出している曲とも言えるかもしれない。

 余談ではあるが、Stonesの曲の中でこの曲だけは長いこと曲とタイトルを一致して認識できなかった。

 

3. Ventilator Blues

 ファンの中では評価が高い、典型的な通好みの曲だと心得ている。ここまでの引きずるようなリズムの表現はきちんと真面目にブルースに向き合ってきたバンドでないとできないのだろう。彼らはジャンキーのように見えてすごく真摯に音楽に向き合っていることがこういう曲を通じて分かるのだ。

 こういう曲だとギターのリフもさることながらCharlieのドラムスの存在がグッと前面に出てきている聴こえ方をしていて、派手さはないながらもキチッとやることはやっているのだと毎度感心する。

 

4. I Just Want To See His Face

 前曲からシームレスに始まる、ほぼヴードゥー教のマントラである(よく知らないが)。個人的にはこのアルバム中最大の問題作だ。妖しいコーラスとドコドコ言っているパーカッションがとにかく印象的である。どの楽器がどこで何をやっているか分からないだけに、珍しくBillその人のベースの摩訶不思議なフレーズがしっかり聴こえてくる。この摩訶不思議さが絶妙にマッチしているから彼も只者ではないことが明らかになる。一聴して好きになることはおそらくないが、聴けば聴くほどこういう曲も癖になっていく。

 

5. Let It Loose

 妖しさ満点の前曲から美しいソウル風バラードが始まると安心する。正直Stonesのバラードの中でも屈指の名曲だと思うのだが、なぜかファンからもそこそこスルーされている気がする(次作のComing Down Againもそう)。完全に個人の好みの話なのだが、この曲全体で聴けるレスリースピーカー風のギターの音が大好きなので、この曲は何度聴いても飽きない。Tumbling Dice同様女声コーラスが非常にいい仕事をしている。ホーンの入ってくるタイミングといいOtis Reddingとかがやっててもおかしくないくらいの分厚いバラードだ。みんなこういう曲にもっとスポットを当てよう。

 

☆Side 4

1. All Down The Line

 このアルバムの好きなところは、前の面の最後にあれだけのバラードを持ってきたのだからそこまででアルバムを締めくくってもよかった気がするのに、そんな気持ちを吹き飛ばすようなバリバリのロックチューンを裏面に持ってきているところだ。しんみりで終わらせてくれない。現在に至るまでライブの2曲目で演奏されることが多い曲。ボトルネックギターが唸っている。間奏の前に待ちきれない感じでフライングするところが好きである。Tumbling Diceなどと比較するとホーンセクションがやりたい放題やっているので異色作っぽさも感じられるが、Stonesをこれから聴き始める人に間違いなくオススメしたい、らしさあふれる一曲だ。

 

2. Shine A Light

 まだこんな曲が出てくるのか…もちろん褒め言葉として。Let It Looseも名バラードであったが、この曲はもっとリズムが立っていてどちらかというとSalt Of The EarthやYou Can't Always〜の系譜の曲である。ギターソロのところで新しい展開を差し込んでくるタイプの曲はよしのがとても好きな部類なのであるが、女声コーラスがこの曲に限ってはやりすぎ?と思う場面もある。そういうコンセプトのアルバムだし曲なので許容範囲ではあるが…とにかくMick圧巻の歌唱である。

 

3. Stop Breaking Down

 流石にあれだけの分厚い曲を持ってきたのだからこれでアルバムも終わりか…と思いきやコテコテのブルースのカヴァーである。どこまでやるつもりなのだろうか。原曲はお馴染みRobert Johnson。大上段に構えた前曲などと比べるとお手のもの、といった感じなのかレイドバックしつつもツボを押さえたカヴァーでカッコいい。これぞStonesの保守本流である、といった感じの名演である。

 アルバム全般に言えることであるが、Keithの骨太リズムギターとTaylorのちょっと頼りなさそうだけど饒舌なギターの絡みがギタリスト諸氏にとっての最大の聴きどころである。「アルバム全般」とは言ったが、中でもこの曲のギター2本の絡みはまさに正統派のカッコよさであると言ってよい。

 

4. Soul Survivor

 ルーツミュージック博覧会で満腹…といった感じのアルバムの最後を締めくくるのはそば湯的な味わいのあるこの曲となった。しんみり終わるでも激しい感じで終わるでもなく、ステディにバンドのスタイルを見せつけて終わるところに彼らの美学を感じる。5人全員(他にもゲストミュージシャンは多く参加しているが)が「これぞ!」な演奏をしているのでとても安心感がある曲だ。それ故に聴きごたえとしてはここまでの17曲に比べると随分あっさりしているが(フェードアウトでサラッと終わるしね)、アルバムを聴き終えた後の謎の爽やかさはこの曲に起因するものが大きい。

 

 …長いアルバムだった。上でも度々使った言葉だが「ルーツミュージック博覧会」である。彼らのバックグラウンドに存在する全ての要素を解き放ったようなアルバムだ。散漫なアルバムなどと評されることも多い一作だが、なかなかどうして特に終盤にかけての怒涛の流れなどは下手なトータルアルバムよりもドラマチックな展開だと思うし、全体として混沌とした彼らのイメージを痛烈に感じられるアルバムであるあことは間違いない。この長文を読んだ君がThe Rolling Stonesを大好きになってくれることを心から願っている。

 

音楽は好きじゃない

 よしのの大好きなThe Rolling StonesThe Beatlesが新しい曲を発表した。2023年に。

 この2つのロックバンドは、世にそういう人がたくさんいるようによしのの人生を良くも悪くも狂わした。尽きせぬエピソードは個人的にたくさんある。小学校卒業間近に、父が持っていた赤盤と青盤をなぜかCD3枚組に分割した得体の知れない音源を聴いたときによしのの中で何かが渦巻いた感覚とか、家から塾に行くためのバス停に向かう道中、当時通っていた床屋の前でたまたまTumbling Diceを聴いていたら、ロックンロールの概念について完全に理解してしまった(ような気がした)ことがあるとか…

 よしのもこれでいて年々聴く音楽はごくわずかながら増えていっているが、基本的には中学生くらいの頃に聴いていた音楽を狂ったように聴き返し、それで満足している。その端緒となんたこの2つのバンドは、よしのにとってちょっと別次元に置いている、宝物のような特別な存在だ。みんなもそういうバンドはあるんじゃないかと思う。

 

 あるとき、とある友人と「音楽を聴くのが好きな人と演奏するのが好きな人がいる」ことを話したことがある。その時の結論は、どう考えてもよしのは演奏するのが好きな側だ、というくらいのことであったが、確かによしのの周りには好きなバンドやミュージシャンのライブを観るためにあちこち出向く人がいる。生憎よしのにはあんまり分からない感覚である。

 

 本当に音楽が好きなんだな、と思う。既によしのが知らないような音楽を数多知っているし、それを楽しんでいるというのに、それでも尚イカしたバンドを探そうなどというのは。前述のように、よしのにはそういう感覚があんまりない。羨ましいし、少なくともロックンロールをやっている自負のある人間としては見習わなければいけない態度だと常々思っている。

 しかし、よしのがそんな「音楽好き」になることは恐らく一生ない。よしのはバンドの音楽だけではなくて、その歴史を摂取しようとしているに過ぎないのだから。

 

 よしのがThe BeatlesやStonesのことが好きな理由は、そのバンドが歩んできた歴史が面白いからだと思う。昔からそうだ。ギターのギの字も知らなかった当時から、戦国武将の伝記を読むのがずっと好きだった。それは歴史の授業、例えば太閤検地が何年で、どういうことが行われたとか、桶狭間の戦いがいつの誰と誰の戦なのかとか、江戸城は実は太田道灌が建てていたとか、そんなことではなくて、そこに出てくる人のものの見方や哲学などに共感したりしなかったり、パーソナルな部分に惹かれて読んでいたのだ。60年代以降の両バンド、およびそれを取り巻く環境の歴史、そしてそれが彼らの創作にそんな影響を与えているのか…ということが好きで、この両バンドにのめり込んでいった自覚がある。それはコンプレックスだ。

 

 Johnのカリスマ性と生い立ちからくるひねくれっぷり、Paulの自覚なき超人的なセンスと周囲への鈍感さ、Georgeの控えめながら腹に一物持っている香り、Ringoのファニーなだけじゃない懐の深さ…いかんいかん、挙げると止まらない。Mickの徹底したスターぶりとビジネス的嗅覚、Keithのあくまで曲げない硬派さ、Charlieの毅然とした英国紳士仕草、Billの模範的むっつりスケベ、Little Mickのブルース職人な芸当、Ronnieの底抜けの人の良さ、そして、Brian Jonesのどこまでも深遠な光と闇…

 当事者ではないし、彼らのデビューから半世紀遅れで生きているよしのにとっては全てまやかしなのかもしれないが、よしのの興味は歴史的事実として残る彼らの生き様こそ真に熱烈な興味を持つ対象なのかもしれない。彼らの残してきた音楽は、彼らの歴史を彩る偉大なBGMに過ぎない…とまで言ったら言い過ぎか。

 

 かくしてよしのにとっては、ロックンロールとは音楽そのものに宿ったものではなく、それをプレイする個人の生き方、スタンスと同義であることが明らかになった。Stonesは月並みな表現で言えば「転がり続ける」ことでそのロックンロールを示したし、Beatlesは解散してから悠久の(?)月日が経ってなお新たな試みで強烈なピリオドを打ってロックンロールを示した。着地点がこうにも対照的なのも、彼らの辿ってきた歴史がそうさせてしまったことの証明なんじゃないかと思う。

 

 さて、よしのは前述の通り音楽を演奏する人間である。よしのにもまたこれまで歩んできた歴史があり、これから辿っていくであろう歴史がある。その意味ではBeatlesやStonesとよしのを並べて語ることも許されるんじゃないかと思う。許されないならば誰か叱ってください。

 …いやいやこれは冗談じゃなく、よしのだけじゃなく、全ての人に等しく言えることだろう。これから出会う全ての人に、よしのが歩んだ歴史を時には言葉ならざるもので語れればいいと思うし、よしのを知る、そしてこれから出会う全ての人にはそれぞれの歴史を語ってほしい。たとえそれがどんな形だったとしても。

 

 最後に断っておくが、純粋に音楽そのものとしてもアルバム「Hackney Diamonds」も「Now And Then」もよしのは好きだった。きっとこれからも懲りずに聴き続けることになると思う。そこに彼らの過ごしてきた日常や非日常を想像しながら…

流石に我慢ならない

 個人的に社会的なイデオロギーを前面に打ち出すのが苦手だから「日本金平党讃歌」のような曲を書くし、それが間違っているとは思わない。異なる思想を持っていても相通ずる人もいるので、そういう人と「思想が違う」と言う理由で袂を分かってしまう、みたいなことは誰も幸せにならないから極力したくないのだ。

 

 それでもやはり長崎ネイティブの人間として、核兵器の話とか原爆の話とか、太平洋戦争の話には人並み以上にアンテナを強力に張っている自負があるし、特にそういうトピックに関して上記のような態度をとってしまうのはどうしても納得いかない部分がある。から夜中に駄文を書いている。

 

 昨日8/6は、広島に原爆が落ちた日だった。明後日8/9は長崎に原爆が落ちた日だ。この2日間と8/15の終戦の日に、よしのの故郷では黙祷のために役場がサイレンを鳴らす。8/9は登校日にもなっており、うだるような暑さの中体育館で平和祈念集会が行われる。

 福岡に来てからも、よしのは黙祷を欠かしたことはない。サイレンが鳴らなくても、よしのの中では本当の平和とは何か考える時間になっている。世界がきな臭かろうとそうでなかろうと、よしのにとってはそういう時間だ。

 昨日の広島の平和祈念式典もラジオでひっそり聴いていた。「核なき世界」への日本の態度に対して思うことも色々とある。そして昨日の首相スピーチの際にはたくさんのヤジが飛んでいたし、見たくもないSNSで様々な意見が飛んでいた。その中には?と思うものもあったけれど、よしのはそのひとつひとつを理解しようと努力している。

 

 福岡に身を置いていると思うことなのだが、役場でサイレンを鳴らすわけでもなく、平和への思いを馳せる時間を設けるわけでもない自治体に住む人間が、そのことに関して声を上げるわけでもなく、ただただ首相スピーチに文句を言う様が健全だとよしのは思わない。当然その中には真剣に被爆地日本の一市民として何かを考えている人もいるとは思うのだが、順序が違うと思う。広島や長崎に起きたことは所詮他人事だと思ってるんじゃないかと受け取ってしまう。首相がスピーチの場で何を言ったか、というのも確かに重要な問題ではあると思うが、恒久平和を願う(今のところ)最後の被爆地に暮らす人間としてそこに何かの怒りをぶつけるのならば、もっと先に「惨禍を忘れないように黙祷のサイレンを鳴らす」ことすら怠っているおらが町の無関心さに矛先を向けないのはおかしくない?

 

 結局「気に入らない奴に文句を言う口実」を探してるだけなんじゃないの?

 

 TwitterTwitterでなくなったときもそうだ。Twitterユーザーの中で、以前からあの青い鳥を心の底から愛していた人なんで数えるほどしかいないだろう。なくなると決まった瞬間文句を言うのだ。「あの青い鳥はTwitterのシンボルだったんだ」などと。アイコンが変わろうが機能が変わらないのなら何事もなく使い続けるくせに。Twitterを買収した金持ちの人が気に入らないから、それに対して文句を言うために、そこまで愛しているわけでもなかった青い鳥を盾にしているようにしか見えなかった。青い鳥が草葉の陰で泣くかもな。

 

 明後日も忘れてはいけない日。1週間後も忘れてはいけない日。どうせよしのは反吐が出る思いをしながら、戦禍に散った無辜の命に思いを馳せることになるだろう。

 

 片腹痛いぜまったく。

よしのに何ができる?

  7/30、沙摩柯というバンドでライブをした。

 『瞑想している部屋』というタイトルのイベントだった。何度も対バンをしたことのあるgn8mykittenさんと、初めて一緒にやるヒライマサヤさんと3組で繰り広げるイベントだったが、終わってみれば本当によしのが瞑想している部屋の香りがするスペシャルな夜だったと今しみじみと感じている。

 

 当日のよしのは朝から妙に思い詰めていた(もちろん周りには気取られないように)。前日には大分でライブをし、とても暖かいムードで打ち上げに参加し、語り合い、商店街で路上ブルースシンガーを眺め、楽屋で寝かせてもらった。最高の夜だった。

 翌日、朝早く起きて一人で散歩したり、朝ごはんを食べたりした。大分は独特の自治体で、歩いていて飽きることはなかった。暑くなってきたら宿≒楽屋に入り、メジャーリーグのトレードの動きを確認していた。大好きな選手であるMax Scherzerがテキサスに行った。大補強を敢行したNYMは今年のシーズンを諦めていた。

 傍から見たら地元の人なんじゃないかと思うほど午前中は普通の日常を過ごしたが、よしのは意味も分からず悶々としていた。なんだこれ?

 大分からの道中では、想像もしていなかったタイミングでよしののトラウマのトリガーが引かれたりした。芋づる式に忘れていた嫌なことや気がかりなことを思い出したりもした。身が凍ったことを他の人に知られないよう振る舞うのは慣れているから大丈夫。それでもなんだかんだと灼熱のドライブを楽しんでいた。冷房がイカれてしまったラパンちゃんの中は沙摩柯の代謝の天才(よしの)と大食漢(モーリー)のかぐわしい香りで、さながら柔道部の部室のようだった。柔道とかやったことなかとやけど。

 

 福岡に着。リハーサルではヒライさんのギターを間違えて持ち去ってしまいそうになるなどのハプニングはあったが滞りなく終わった。

 オープンまでの間にハッピーターンじゃがりこ(サラダ味)を食べたがあんまり味がしなかった。gn8mykittenさんともヒライさんともあんまり喋らなかった。さすがのよしのも自主企画の本番前だから緊張しているのかな〜?と思ったが、そういう訳ではないことをよしのの中のリトルよしのは知っていた。

 じゃあなんだこれ?なんだこれは?

 

 1番目はgn8mykittenさんだった。

 基本的に彼のライブ中に目を離すことはできないので、真正面から黙って観ていた。多分いつも彼のライブ中のよしのは鬼の形相になっている。

 よしのに何ができる?

 と思った。多分朝からよしのはこう自問自答していた。

 よしのに何ができる?

 

 2番目はヒライさん。

 ヒライさんを初めて観たのは数ヶ月前だったけど、気づいたら本当に大好きなミュージシャンになっていた。こういうジワジワと好きになってしまう音楽は、長いこと聴き続けることができるから嬉しいのだ。例えばそれはよしのなら仲井戸麗市

 gn8mykittenさんとはまた違うけど物凄まじい歌だった。前日のサイキシミン大谷さんに続いてヒライさんにもギターを貸した。大谷さんもそうだけど、いい音で弾いてくれて嬉しかった。あのテレキャスター(蚩尤瀑布砕ちゃんという名前で呼んでいる)がよしのよりヒライさんや大谷さんのこと好きになっちゃったらどうしよう。

 よしのに何ができる?と思った。文字が明朝体から太字のゴシック体になって脳裏に浮かんだ気がした。

 よしのに何ができる?よしのに何ができる?よしのに何が…

 

 丸一日続けていた自問自答だが、結論からいくとよしのは何もできない訳ではなかった。

 ヒライさんの演奏の最後の方は会場のロフト的な荷物置きで、吾等がパワードラマー、モーリーと準備していた。出番直前、「よしのはできることをやるモードに入ってます」と言った。嘘じゃなかった。

 「よしのに何ができる?」の答えは言葉にはできていない。けどその日の沙摩柯はできることをやって、言葉にならないそれが瞑想している部屋中に沁みていく様を目の当たりにした。あと、2日間のモーリーの演奏はこれまでじゃ考えられないくらい頼りになった。

 「よしのに何ができる?」今日できていることが明日できなくなるかもしれないけれど、明日にはもっと別のことができるようになっているはずだ。それが言葉にできたとき、よしのはロックンロールから足を洗うんじゃないかな?と漠然と思っている。

 

 打ち上げの後、最後まで残ったモーリー夫妻とヒライさんは3人でタクシーに乗って帰った。今朝以来の独りだ。一日中悶々としていたことはちょっとだけクリアになっていた。

 家に帰ったら、2日間の疲れでバタンと眠るのかと思ったが、全然眠たくならなかった。週末にお世話になった人たちに、無事帰り着いたこととお礼のメッセージを送る。酒より美味い言葉たちが返ってきた。全部ひっくるめて楽しかったが、楽しいばっかりじゃなく、もっと別の気持ちが残った。ロックンロールはよしのにとってただの遊びじゃなくなっている気がしている。でも、間違いないのは「もっと別の気持ち」がよしのにとって本当に愛しいフィーリングだということだ。

 

 そして、「よしのに何ができるんだろう」と口に出してみたら涙が溢れた。

 

 『瞑想している部屋』を覗きに来てくださった皆さん、ありがとうございました。これからのよしのが、そして沙摩柯というバンドができることを楽しみにしていてください。

 

7/30 

1. ななこちゃん

2. インターネットが終るまで

3. スウィート・ホーム・ピッツバーグ

4. プロポーズ

5. ドデカミン・ジャンキー

6. 烏帽子職人のうた

7. (自主規制)

8. やってやれないことはない

オクムラユウスケ「穴たちに捧ぐ」考

 先日とあるライブを観に行き、その日の出演者であったオクムラユウスケさん(以下敬称略)のアルバム『クズの夢』を購入した。

 彼のライブを初めて目撃したのは確か5年ほど前、よしのが20歳になる前後のことだったと思うが、その時に演奏していたバンド、オクムラユウスケ&Not Sportsのようなサウンドを、ライブよりもはっきりとした輪郭で、歌詞カードを見ながら聴ける非常に贅沢な作品で、よしのも当時味わった衝撃を追体験するような気持ちで聴いた。

 

 3曲目「穴たちに捧ぐ」の一部の歌詞が好きなので、以下に勝手に引用する。すいません。

  私のお墓の前で 全裸で放尿するような

  罰当たりな変態求めて 参加した親戚の葬式で 君と出会った

 

 これは3番の歌詞である。「私のお墓の前で〜」ときたら、これが「千の風になって」のオマージュであることは明白だ。ここまで他の曲の歌詞を引いてくるパートがないこの曲(「家庭的な痴女」とか、「ピンクローター突っ込んだままソーラン節を踊る云々」とかの歌詞が出てくる曲をよしのは寡聞にして知らない)で、突如このパートが現れると、曲の中で新しいパートが出てきたのだと思う。RCサクセションが「トランジスタ・ラジオ」をライブで演奏するときに「遠い山に日は落ちて」を間奏に独立したパートとして挟み込んでいるのが好例だ。

 基本的に「千の風になって」から歌詞を引用する場合、「私のAの前でBしてください(或いは「しないでください」)」の形をとることが殆どであろう。小学生が友達との馬鹿話の中でおもしろ替え歌にするときも99%このパターンなのは想像に難くない。この文型をなぞり、AやBの中にどれだけインパクトの強い言葉を差し込めるかが替え歌にする際のポイントとなる。

 その点では「私のお墓の前で〜」の後に「全裸で放尿」というドギツいワードを持ってきた時点で良質な替え歌になることは確定している。聴いている誰もがこの後に「してください」とでも来るであろうことを想像する・・・そこに「するような」と来たもんだ。これは第1の裏切りポイントである。

 それどころか歌詞に見事に裏切られたリスナーはほぼ同時にもう一つのことに気づく。

 「あれ?これ3番じゃん」と。

 「トランジスタ・ラジオ」よろしく初出のパートが始まるかと思いきや普通にこれまでの曲の流れに沿ったパートなのだ。歌詞にかこつけて言えば、お墓の前で全裸で放尿している変態の映像を見ていたら、その飛沫がよしのに全部かかった!といった感覚に襲われる。よしのはこの曲以外でこんな感覚になったことがない。

 

 「私のお墓の前で 全裸で放尿するような」は「罰当たりな変態」にかかっている。オマージュ元である「千の風になって」の冒頭「私のお墓の前で 泣かないでください」と言うのは、実現可能性の極めて低いお願い(大事な人のお墓の前で泣く、というのは選択の余地のないほど自然な現象に思える)を、「泣く」の対象である故人の立場からすることで歌詞としてのインパクト、そして感動を与えるものだ(とよしのは考えている)。替え歌にしたときの可笑しさも、「〜しないでください」とお願いする実現可能性の低いお願い(=とても自然な行動)に「常人ならあり得ない行動」を当てはめることで生まれるものだと思う。

 「全裸で放尿」というワードも当然そのような可笑しさを生むべくして使われている、と上述のようにリスナーは誤解するのだが、この後に当然来るであろう「してくださいorしないでください」という実現可能性の低いお願い(この場合「全裸で放尿」自体が実現可能性の低い行動ではあるのだが)をするまでもなく、能動的に全裸で放尿するというのは「罰当たりな変態」の描写としてあまりにクリティカルであろう。

 

 まだ続く。(以下の考察は1、2番にも共通して言えることだ)ここまでの歌詞で、この「罰当たりな変態」の変態っぷりが余すところなく伝わったところで、「求めて参加した」である。ここで初めて、この「罰当たりな変態」は、少なくとも親戚の葬式に参加する前の時点では歌中の主人公(歌い手その人と言ってもよい、以下「主人公」)の想像上の存在だとわかる(その後に出会った「君」は想像上の存在だったそれを現実にしたのだろうか?)。

 ここまでで見えてきた「罰当たりな変態」はリスナーの想像を超えてきている。しかし主人公にとってはこの程度の「罰当たりな変態」は想定の範囲内だ。この時点で、主人公は「罰当たりな変態」よりも上位の変態だと言えよう。ここまで歌詞の上でも、曲の展開の上でもリスナーの想像を超える描写で迫ってきた「罰当たりな変態」の、さらに上位の変態である主人公は一体どんな変態なんだろう・・・

 

 3番の歌詞の最序盤のわずか2行ほどの歌詞で、ありありとした臨場感で迫ってくる主人公の変態っぷりにいつの間にかよしのも乗っ取られてしまい、ここのパートを聴くたびに言い知れぬ背徳感が湧き上がってくる。

 

 凡人たるよしのの感覚で己の変態性(この主人公とは、あくまで歌詞を書いたオクムラユウスケその人を仮託した存在だとすれば)を表現しようとすると、「よしのの行った変態行為」を描写することに躍起になってしまうが、オクムラユウスケは主人公の独白のような形で、自分の想像する変態を克明に描写し、最後に自分がヒョイと飛び越えていくことでそれを実現している。同じように曲も歌詞も書いている人間として、そこには学ぶ点が多い。

 

 ここまでの考察は置いておくにしても、オクムラユウスケの曲には度肝を抜かれる瞬間が数多ある。彼のライブを観よう。そしてできれば、CDも買おう。

第六小隊、集合!

 どうやら世の中には人生を「選択」とみる向きと「運命」とみる向きがあるようだ。

 

 よしのはどちらかといえば後者寄りの考えをしていて、それはここまで生きてきた中で色々ターニングポイントと呼べる時点で何かを「自分で決めてきた」というより「勝手にそうなってしまった」ことの方が多い実感があるからだと思う。よしのと出会ってきた人もそういう人を探し求めて出会ったわけではなく、好きなものも嫌いなものも、好きに(嫌いに)「なろう」としてなったわけではなくて勝手に好きに(嫌いに)「なってしまって」いた。もしかしたらよしのが無自覚に色んなものを取捨選択して、残ったものがよしのの周りのステキな人や文物だ、という可能性もあるが、今言っているのは事実ではなく受け取り方の話である。

 

 別にどっちの見方をしたとてそれは本人の勝手なのだが、こういう人生を「そういう運命だ」とする考え方をしていると、ごく自然によしのの中で起こっている「たまたま」なことに感謝することができる。人生がうまくいっていれば。これまでよしのと接点を持ってくれた森羅万象よありがとう。これから接点を持つであろうみんなもついでにありがとう。

 逆に人生ドン詰まりな感じになっていると、「そういう運命」を呪う方向に動いてしまうのが人間の悲しい性だというのもまた然りで、なかなか自分のやっていることに責任が持てていない感覚も同時に抱えてしまうんじゃなかろうか、というのがよしのの生にモヤっとしているところでもある。これは想像だが、世の中に数多いる、人の足を引っ張りながら生きている人の殆どはよしの型の思考回路(大袈裟に言えば人生観か?)を持っているんじゃないかと思う。

 

 これを読んでいる君がどんな人生をどのくらいの長さ生きているかをよしのは知る由もないが、誰しも人生の中で特大な出来事・イベントをいくつか思い出せると思う。当然よしのにもいくつかある。しかし上で述べた通り、振り返るとそれらの多くはよしのが引き起こしたものではなく、好むと好まざるに関わらず転がり込んできた(いいこと)り、降りかかってきた(悪いこと)りしたものだ。※さぁ君の場合はどうだろう?

 転がり込んできたものは僥倖と喜べばそれでよい。問題はどういうわけか降りかかってきた災難をどうするかである。繰り返しになるが、降りかかってしまった災難を呪うことでせめてもの安らぎを得ようとすることはできる。現実的に最も簡単な災難の処理の仕方だと思う。

 

 しかし、僥倖に僥倖の重なってきたラッキーマン、キング・ヨシノ・ロドリゲスその人はいつも、降りかかる災難を呪う人のことを横目で見ては「みっともないなァ…」と独りごちている。「たまたま」降りかかった災難に最も簡単なやり方で処理するのは、よしのにとっては降伏するのと同じだと感じられてしまう。諸葛孔明を失った蜀漢にあって、現実的に勢力図をひっくり返すことはほぼ不可能に近かったが姜維は戦い続けた。そんな中時の皇帝劉禅はあっさりと降伏した。姜維が国力の低下を無視して無謀な北伐を繰り返したことに対する賛否は当然あるし、あっさり降伏した劉禅のやり方を生き残るための最も賢い方法であると考えることもできる。しかし人間ドラマ『三国志』を味わううえでは、よしのは姜維の姿こそカッコいいと思ってしまうのだ(=姜維に魅力を感じさせられている、のだ)。

 

 転がり込んだ運命は享受しよう。降りかかった運命には抗おう。これがよしののスタンスだ。幸いなことによしのには「たまたま手にした」ロックンロールという武器がある。全てを「そういう運命だ」とするのは実に身も蓋もない話だが、受け入れるだけではなくて抗うことができる、ということをよしのはロックンロールから学んだ、はずだ。よしのの信じたものがそんなに無力なわけがない。※むむむ、よしのはやはり病気かもしれない。

 

 運命に抗うすべてのみんな、人呼んで第六小隊(一から五はどこかへ消えた)。不屈の闘志、今だ突撃!

 

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なにも変わることができない

 最近、ちょっとしたきっかけからBrian Jones在籍期のThe Rolling Stonesをまた聴いている。

 「また聴いている」と言っても、初めて聴いた中学生のときから、全く聴いていない時期がないほどずっと聴き続けている。

 

 みんな少しずつ人生をステップアップしていって、それに合わせて住む場所や環境が変わる。着る服も変わる。ゴルフとかも始める。ゲーム機も買い替える。そして、聴く音楽も変わる・・・

 

 よしのには「昔聴いていた音楽」がない。新しい音楽を全然聴かないから。今でも中学生だったときに聴いていたロックンロールに微塵の懐かしさも感じることなくワクワクしている。加えて言えば未だにPS2で「実況パワフルメジャーリーグ2009」で遊んでいる。横山光輝の『三国志』も読む。別によしのは満足しているつもりだが、もしかしたら中学生だった当時のまま取り残されているだけなんじゃないか・・・と思うことは一度では済まないほどある。新作のゲームの話がわからない。今面白いとされている漫画の話が分からない。よしのにとって懐かしい話と言えば、きかんしゃトーマステレタビーズ、戦国時代、横綱朝青龍落合監督・・・そこが若干ズレていることに関しては、単に昔のよしのがちょっと個性的な趣味をしていたというだけのことなのでどうでもいいのだが、中学生のときと同じ感性のまま生きていることに対して「お前はなにも変わっていないな〜」という自分自身が勝手に生み出した冷ややかな目を感じることがある。

 

 今日もNot Fade AwayでBrianが2つのハープを器用に持ち替えてプレイしている。たまたま中学生のときに出逢ってしまったロックンロールが、よしのの最期の趣味を決定づけてしまったのかもしれない。もしかしたら本来段階を踏んでたどり着く場所によしのはワープしてしまったのかもしれない。そう考えると幾分気分は楽になる。それか、不知の病に犯されてしまったんだと開き直ればもう少しマシな気持ちだ。中日ドラゴンズに冒され、ロックンロールに冒されてしまったよしのの二重苦をもう少しみんなには心配してもらいたい。

 

 実は結構な期間よしのはライブをやっては「よしのを養っておくれ」だの、「吾等に栄光あれ」だの、ただの絶叫だのを垂れ流している。みんなはこういうのに飽きて、他の何かに救われていくのかもしれないけど、よしのはもうダメだ。何よりそんな自分にちょっと酔ってしまっているのが最悪だ。誰もそんなよしのに苦言を呈することがないのは、「もうダメ」なよしののことを周りが認めてくれているのか、見捨てられているのか、その中間なのか分からない。中学生のときから聴き続けているロックンローラーがまだ現役でやってくれているのがよしのにとって僅かな希望の種だと思う。なにも変わることができないよしののことを完全にOKするのはもう少し先のことになるかもしれないけれど・・・

 

 全然話は変わりますが、よしのはMacbook Airを買いました。ほれ見てみろ、よしのだってちょっとずつアップデートされている。