オクムラユウスケ「穴たちに捧ぐ」考

 先日とあるライブを観に行き、その日の出演者であったオクムラユウスケさん(以下敬称略)のアルバム『クズの夢』を購入した。

 彼のライブを初めて目撃したのは確か5年ほど前、よしのが20歳になる前後のことだったと思うが、その時に演奏していたバンド、オクムラユウスケ&Not Sportsのようなサウンドを、ライブよりもはっきりとした輪郭で、歌詞カードを見ながら聴ける非常に贅沢な作品で、よしのも当時味わった衝撃を追体験するような気持ちで聴いた。

 

 3曲目「穴たちに捧ぐ」の一部の歌詞が好きなので、以下に勝手に引用する。すいません。

  私のお墓の前で 全裸で放尿するような

  罰当たりな変態求めて 参加した親戚の葬式で 君と出会った

 

 これは3番の歌詞である。「私のお墓の前で〜」ときたら、これが「千の風になって」のオマージュであることは明白だ。ここまで他の曲の歌詞を引いてくるパートがないこの曲(「家庭的な痴女」とか、「ピンクローター突っ込んだままソーラン節を踊る云々」とかの歌詞が出てくる曲をよしのは寡聞にして知らない)で、突如このパートが現れると、曲の中で新しいパートが出てきたのだと思う。RCサクセションが「トランジスタ・ラジオ」をライブで演奏するときに「遠い山に日は落ちて」を間奏に独立したパートとして挟み込んでいるのが好例だ。

 基本的に「千の風になって」から歌詞を引用する場合、「私のAの前でBしてください(或いは「しないでください」)」の形をとることが殆どであろう。小学生が友達との馬鹿話の中でおもしろ替え歌にするときも99%このパターンなのは想像に難くない。この文型をなぞり、AやBの中にどれだけインパクトの強い言葉を差し込めるかが替え歌にする際のポイントとなる。

 その点では「私のお墓の前で〜」の後に「全裸で放尿」というドギツいワードを持ってきた時点で良質な替え歌になることは確定している。聴いている誰もがこの後に「してください」とでも来るであろうことを想像する・・・そこに「するような」と来たもんだ。これは第1の裏切りポイントである。

 それどころか歌詞に見事に裏切られたリスナーはほぼ同時にもう一つのことに気づく。

 「あれ?これ3番じゃん」と。

 「トランジスタ・ラジオ」よろしく初出のパートが始まるかと思いきや普通にこれまでの曲の流れに沿ったパートなのだ。歌詞にかこつけて言えば、お墓の前で全裸で放尿している変態の映像を見ていたら、その飛沫がよしのに全部かかった!といった感覚に襲われる。よしのはこの曲以外でこんな感覚になったことがない。

 

 「私のお墓の前で 全裸で放尿するような」は「罰当たりな変態」にかかっている。オマージュ元である「千の風になって」の冒頭「私のお墓の前で 泣かないでください」と言うのは、実現可能性の極めて低いお願い(大事な人のお墓の前で泣く、というのは選択の余地のないほど自然な現象に思える)を、「泣く」の対象である故人の立場からすることで歌詞としてのインパクト、そして感動を与えるものだ(とよしのは考えている)。替え歌にしたときの可笑しさも、「〜しないでください」とお願いする実現可能性の低いお願い(=とても自然な行動)に「常人ならあり得ない行動」を当てはめることで生まれるものだと思う。

 「全裸で放尿」というワードも当然そのような可笑しさを生むべくして使われている、と上述のようにリスナーは誤解するのだが、この後に当然来るであろう「してくださいorしないでください」という実現可能性の低いお願い(この場合「全裸で放尿」自体が実現可能性の低い行動ではあるのだが)をするまでもなく、能動的に全裸で放尿するというのは「罰当たりな変態」の描写としてあまりにクリティカルであろう。

 

 まだ続く。(以下の考察は1、2番にも共通して言えることだ)ここまでの歌詞で、この「罰当たりな変態」の変態っぷりが余すところなく伝わったところで、「求めて参加した」である。ここで初めて、この「罰当たりな変態」は、少なくとも親戚の葬式に参加する前の時点では歌中の主人公(歌い手その人と言ってもよい、以下「主人公」)の想像上の存在だとわかる(その後に出会った「君」は想像上の存在だったそれを現実にしたのだろうか?)。

 ここまでで見えてきた「罰当たりな変態」はリスナーの想像を超えてきている。しかし主人公にとってはこの程度の「罰当たりな変態」は想定の範囲内だ。この時点で、主人公は「罰当たりな変態」よりも上位の変態だと言えよう。ここまで歌詞の上でも、曲の展開の上でもリスナーの想像を超える描写で迫ってきた「罰当たりな変態」の、さらに上位の変態である主人公は一体どんな変態なんだろう・・・

 

 3番の歌詞の最序盤のわずか2行ほどの歌詞で、ありありとした臨場感で迫ってくる主人公の変態っぷりにいつの間にかよしのも乗っ取られてしまい、ここのパートを聴くたびに言い知れぬ背徳感が湧き上がってくる。

 

 凡人たるよしのの感覚で己の変態性(この主人公とは、あくまで歌詞を書いたオクムラユウスケその人を仮託した存在だとすれば)を表現しようとすると、「よしのの行った変態行為」を描写することに躍起になってしまうが、オクムラユウスケは主人公の独白のような形で、自分の想像する変態を克明に描写し、最後に自分がヒョイと飛び越えていくことでそれを実現している。同じように曲も歌詞も書いている人間として、そこには学ぶ点が多い。

 

 ここまでの考察は置いておくにしても、オクムラユウスケの曲には度肝を抜かれる瞬間が数多ある。彼のライブを観よう。そしてできれば、CDも買おう。