第六小隊、集合!

 どうやら世の中には人生を「選択」とみる向きと「運命」とみる向きがあるようだ。

 

 よしのはどちらかといえば後者寄りの考えをしていて、それはここまで生きてきた中で色々ターニングポイントと呼べる時点で何かを「自分で決めてきた」というより「勝手にそうなってしまった」ことの方が多い実感があるからだと思う。よしのと出会ってきた人もそういう人を探し求めて出会ったわけではなく、好きなものも嫌いなものも、好きに(嫌いに)「なろう」としてなったわけではなくて勝手に好きに(嫌いに)「なってしまって」いた。もしかしたらよしのが無自覚に色んなものを取捨選択して、残ったものがよしのの周りのステキな人や文物だ、という可能性もあるが、今言っているのは事実ではなく受け取り方の話である。

 

 別にどっちの見方をしたとてそれは本人の勝手なのだが、こういう人生を「そういう運命だ」とする考え方をしていると、ごく自然によしのの中で起こっている「たまたま」なことに感謝することができる。人生がうまくいっていれば。これまでよしのと接点を持ってくれた森羅万象よありがとう。これから接点を持つであろうみんなもついでにありがとう。

 逆に人生ドン詰まりな感じになっていると、「そういう運命」を呪う方向に動いてしまうのが人間の悲しい性だというのもまた然りで、なかなか自分のやっていることに責任が持てていない感覚も同時に抱えてしまうんじゃなかろうか、というのがよしのの生にモヤっとしているところでもある。これは想像だが、世の中に数多いる、人の足を引っ張りながら生きている人の殆どはよしの型の思考回路(大袈裟に言えば人生観か?)を持っているんじゃないかと思う。

 

 これを読んでいる君がどんな人生をどのくらいの長さ生きているかをよしのは知る由もないが、誰しも人生の中で特大な出来事・イベントをいくつか思い出せると思う。当然よしのにもいくつかある。しかし上で述べた通り、振り返るとそれらの多くはよしのが引き起こしたものではなく、好むと好まざるに関わらず転がり込んできた(いいこと)り、降りかかってきた(悪いこと)りしたものだ。※さぁ君の場合はどうだろう?

 転がり込んできたものは僥倖と喜べばそれでよい。問題はどういうわけか降りかかってきた災難をどうするかである。繰り返しになるが、降りかかってしまった災難を呪うことでせめてもの安らぎを得ようとすることはできる。現実的に最も簡単な災難の処理の仕方だと思う。

 

 しかし、僥倖に僥倖の重なってきたラッキーマン、キング・ヨシノ・ロドリゲスその人はいつも、降りかかる災難を呪う人のことを横目で見ては「みっともないなァ…」と独りごちている。「たまたま」降りかかった災難に最も簡単なやり方で処理するのは、よしのにとっては降伏するのと同じだと感じられてしまう。諸葛孔明を失った蜀漢にあって、現実的に勢力図をひっくり返すことはほぼ不可能に近かったが姜維は戦い続けた。そんな中時の皇帝劉禅はあっさりと降伏した。姜維が国力の低下を無視して無謀な北伐を繰り返したことに対する賛否は当然あるし、あっさり降伏した劉禅のやり方を生き残るための最も賢い方法であると考えることもできる。しかし人間ドラマ『三国志』を味わううえでは、よしのは姜維の姿こそカッコいいと思ってしまうのだ(=姜維に魅力を感じさせられている、のだ)。

 

 転がり込んだ運命は享受しよう。降りかかった運命には抗おう。これがよしののスタンスだ。幸いなことによしのには「たまたま手にした」ロックンロールという武器がある。全てを「そういう運命だ」とするのは実に身も蓋もない話だが、受け入れるだけではなくて抗うことができる、ということをよしのはロックンロールから学んだ、はずだ。よしのの信じたものがそんなに無力なわけがない。※むむむ、よしのはやはり病気かもしれない。

 

 運命に抗うすべてのみんな、人呼んで第六小隊(一から五はどこかへ消えた)。不屈の闘志、今だ突撃!

 

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