とにかくなんにもしたくないのか??

 考えてみればしたいことは多すぎるほどにある。

 ナゴヤドーム(今はバンテリンドームナゴヤか)に行ってドラゴンズの勝利を拝みたい、ドラゴンズの優勝、日本一の胴上げをこの目に焼き付けたい、いい加減CDを作りたい、作業用の机を手に入れたい、今度出るビートルズの映画が観たい、寄席というものを見物したい、相撲部屋の稽古を見てみたい・・・

 「〽とにかくなんにもしたくないのだ」とはよしのの偽らざる本音だが、どうやら「なんにも」とはなにがしかの条件付きの「なんにも」だったようだ。

 

 今までの人生でよしのは「やりたくないことを我慢してやった」経験が殆どない。学校の宿題に追われたりとか、興味もない習い事に無理矢理引きずられていったりとか、そういう経験は皆無に等しい。そういう類のことは大体の場合、ヘラヘラしていたらいつの間にか終わっていたりする。それは単によしのが色んな事を面白がるマインドができていた、ということもあるのかもしれないが、色々と思い返してみると、今まで嫌なことはしなくても誰かがやってくれていたり、よしのが苦労しなくてもいいように誰かが計らってくれていたりした気がする。そういう意味では、「とにかくなんにもしたくないのだ」と言うまでもなくその気持ちは満たされていたのかもしれない。

 

 と、ここまではよしのは大変恵まれた人間だと思えるが、よしのとしてはこういうところがコンプレックスでもある。「やりたくないことを我慢してやった」経験のある人とよしのでは、何となく面構えが違う。あくまでよしのの知り得る範囲でしか分からないことだが、よしのは苦労を知らない人間だと思う。「やりたくないことはなんにもしなくていいよ」と言ってくれる人が身の回りにたくさんいて、そういう人たちにおんぶにだっこでここまで生きてきたとも言えるだろう。上で挙げた「とにかくなんにもしたくない(はずの)よしのがしてみたいこと」も、現状「してみたいこと」止まりで、いざ実現してやろうという気概を見せられないよしのの情けなさである。

 

 いやいやそうは言ってもこのよしの、バイタリティだってない人間ではない。例えばライブが終わったり、バンドの練習が終わったりした後、電車がなくなって4時間かけて歩いて帰ることになろうとも、夜が明けるまで歩き続けるくらいの実績は持っている。よしのは歩くことが好きである、と言ってしまえばそれまでであるが、よしのが歩くこと(それも常識の範疇をはるかに超えて)ができるのも、歩くしかない状況に立たされた時に歩くことを好きになろうという努力をしたからこそだと自負している。大概のことは好きになれるから、嫌なことをして来ずに済んだとでも考えていいんじゃないだろうか。

 

 自分の中で葛藤し続けているトピックなので、前言を翻しまくった形にはなってしまったが、今後目の前に現れるかもしれない「とにかくしたくないこと」をよしのは好きになれるのか、したくないまんま厭々することになるのか、それとも誰かが代わりにやってくれるのか、これはよしのの人生の中でも極めて重要なハイライトになってくれそうな予感がしている。だから君がよしのを養っておくれ・・・