みんなで食べるとおいしいね節

説明が面倒なので経緯は割愛するが、先週末の連休で社会人になっているマブダチが帰ってきた。

マブダチといえばよしのと2つ違いの先輩であるが、大学の喫煙所で談合じみたことをしてみたり、一緒にピンク映画を観てみたり、交互浴をしてみたり肉を素手で食べてみたりする仲である。

よしのが20歳の夏ごろ、マブダチはいきなりよしのを牧のうどんに連れ出した。その衝撃が、よしのと肉うどんの出逢いである。それまで数度行ったきりの牧のうどんのイメージは「近所の落ち着くうどん屋」程度であったが、肉うどんというメニューに限ってはそんな甘っちょろいものではない。肉とうどんとつゆが渾然一体となったそれは最早ただのうどんではなく「牧のうどんの肉うどん、やわ麺」という明確に別のメニューであった。

 

よしのとマブダチはその後何度もお店に足を運び、狂ったように肉うどんを食べ続けた。かしわごはん(うどんの陰に隠れがちではあるものの、このメニューは牧のうどんの裏ボス的存在だと思っている)を食べ終わったつゆにぶち込んでみたり、やわ麺がより柔らかくなるように来てもすぐ食べずに待ったり、よしのはお冷の入っていたコップに追加のつゆを注いで飲み干したり(マブダチはしっくり来ていないようだ)、店舗による味の傾向の違いを考察したり、研究に研究を重ねていった。いつでも我々は満面の笑みで入店し、肉うどんを余すところなく楽しみ、恍惚の表情で退店した。そこにはただ食事をするために牧のうどんを選んだという人間とは一線を画する、どこか儀式的な営みがあった、と今振り返って思う。ウッドストックフェスティバルとかで完全にラリっている連中の気分はさしずめこんな感じだろう、というような、あの頃の我々は完全にトリップしていた。

 

先週はよしのとマブダチが大学で一緒にやっていた美食家バンドの面々と、久々に牧のうどんに行った。今年の2月は期間限定の「花巻トッピング」がある月で、大量の海苔がトッピングされる。よしのは確かな磯の香りを鼻の奥に感じ、旧交を温めた、つもりである。「みんなで食べるとおいしいね」などとふざけながら店を出たが、つい最近までは比較的いつでもできていた(実際に美食家バンドが牧のうどんに行った回数は片手で足りる程度ではあるが)みんなで食べる、ということももう過去になってしまったことも、同時に実感して少し寂しくなってしまった。こういう時に大切なのは実際にするか否かではなく「いつでもできる」という安心感の方なのである。

 

連休と共にマブダチは去った。よしのは昨日も牧のうどんに行った。向かいにマブダチはいないのに、いつも通りの肉うどんを食べている時、よしのは「みんなで食べるとおいしいね」という言葉の意味を悟ったのであった。昔玄関開けたら何の某という曲を書いたことがあるが、玄関開けたらマブダチがいたらこんなに愉快なことはないと思う。

 

以下はよしの流の肉うどんの食べ方である。

①肉うどん到着、一味やネギ等そそるトッピングがあるが、ここは肉うどんと裸で向き合いたい、基本的に机に用意されたトッピングは使わず食べよう。

②まずは肉とつゆをよく混ぜる。イメージは肉と麺を入れ替える感じで。

③麺が増える以上のスピードで喰らう。クッタクタのネギと絡めて食べてもいいし、肉と一緒に楽しんでもよい。

④麺を完食、この時肉が僅かに残っている状態が最も好ましい。もう満たされたなら、つゆを飲み干して器の底のロゴを拝んでごちそうさま。

⑤かしわごはん投入(よしの命名「かしわ茶漬け」)。よしのは最初にたくあんを食べて味をリセットする。④で残した僅かな肉片がここで活きてくる。肉うどんの余韻がかしわごはんのパワーで甦る。

⑥ここから先は好み、よしのの場合はレンゲに残ったごはんや肉片を追加のつゆで洗い流してフィニッシュ。器の底のロゴを拝んでごちそうさま。お会計の時に店員さんにも「ごちそうさま」のあいさつを忘れないようにしよう。

 

以上がよしのが牧のうどんを最後の最後まで余すところなく楽しむ方法である。他に良い食べ方があればぜひ教えていただきたい。

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グッド・バイ、ミスター・ドラゴンズ

先週、完全に酔った勢いでドラゴンズへの思いを書きなぐってしまった。数日経って読み返すと恥ずかしいほどの乱文、乱筆、情けない限りである。

 

その翌日、ミスター・ドラゴンズが逝ってしまった。高木守道

正直言ってよしのにとってのミスター・ドラゴンズとは立浪和義であり、高木監督(よしの的にしっくりくるのは高木「監督」なのでそう呼ぶが)はそれよりもドラゴンズOBの「ドン」であり、月刊ドラゴンズでのコメント等を読んでも、中日ドラゴンズという球団に対してまさに一家言ある存在として認識していた。

 

高木監督の名シーンとしてしばしば取り上げられるのは「10.8決戦」であるが、この当時よしのは受精卵にすらなっていないのでよく分からない。ただドラゴンズが優勝まであと一歩のところまで至ったが、にっくき長嶋ジャイアンツにお株を奪われたのだ、そして立浪はヘッドスライディングで脱臼し、その後も肩の痛みを引きずりながら闘っていた、ということの重大さはよく分かっているつもりだ。

 

よしのが当時中学生だった昔、高木監督が落合監督の後任として発表された時には正直に「あの高木守道がついにヴェールを脱ぐ!!!」と思った。落合監督就任時も思ったが、とにかく現役当時をよく知らない名選手が、ドラゴンズの監督になるということはそれだけでもよしのにとって大イベントだった。そして発表されたスローガン「Join us ~ファンと共に~」、落合監督は勝てるけど面白くない(よしのはファン側の立場としてなんでもいいから勝ってくれと思っているが・・・)と「一般には」言われていたが、ファンに寄り添ったチームを作ろうとしてくれた高木監督、その姿に初めてよしのは、ファンとして思いを寄せることができたのかもしれない。そして尊敬していた落合監督が退任しても、高木ドラゴンズに胸躍っていたのかもしれない。

 

新生高木ドラゴンズの結果は1年目に2位、2年目に4位であった。1年目は讀賣にCS3連勝を果たしたが、その後3連敗で日本シリーズへの夢を断たれた。CS2ndのあの時も、「10.8の再来」と騒がれていたことを覚えている。そして監督2年目に、久々のBクラスに落ちて高木監督は退任した。ナゴヤドームでの退任挨拶のときの、あの心無い野次をよしのは怒りと共に記憶している。ドラゴンズ一筋で現役を戦い、引退後もドラゴンズにこれだけ尽くしてくれた、そんな高木監督を野次で送り出すなんて、よしのは到底許せなかった。

ホークスファンだった中学校の担任の先生から「耄碌おじいちゃん」と揶揄されても、退任時の野次を聞いても、投手コーチの権藤さんやイマチュウと、そして中心選手の井端と喧嘩していても、よしのは高木監督を悪く言う気になれなかった。それもこれも、高木監督がドラゴンズを象徴する存在であることをよしのは本能的に知っていたからではないかと、今になって思う。

 

ドラゴンズ一筋、V9を止めた時の優勝メンバーとしての印象は強いが、監督として優勝は一度もできなかった。1度目の監督は星野仙一の後だった。2度目は落合博満の後だった。押しも押されもしない「ミスター・ドラゴンズ」でありながら誰もやりたがらない彼らの後任をやってくれた。1度目は10.8決戦、2度目はCS2nd最終戦、あと一歩というところで栄光はスルリとすり抜けた。「何か持っていない人」と思われているかもしれないが、一度でいいから、その悔しさを晴らす姿が見たかった。

 

高木監督の訃報を知ったのは、祖父の一周忌のために帰っていた実家でのことであった。今頃冥土のよしのの祖父や父からサインや握手をせがまれているのだろう。ドラゴンズ一筋、幸せな野球人生だったとあの世で振り返っていてほしい。

 

高木監督のためにも、今年のドラゴンズは優勝しなければならない。今年の胴上げは高木監督と一緒にやろう。

 

ミスター・ドラゴンズ、安らかに。

落合博満の「オレ竜ドラゴンズ」を思う

よしのは熱狂的ドラゴンズファンだ。誰も異論はあるまい。

 

長崎は時津に生まれ、そこで育ったよしのが(地理的に縁もゆかりもない)ドラゴンズファンになった理由は「遺伝」以外の言葉で説明のしようもない。亡くなった祖父が「お前のひいおじいちゃんは名古屋の人だったんだぞ」と言った直後にボケてしまったので根拠としては少々危ういが、ともかくよしのは祖父の代から続くドラゴンズファンなのである。

祖父が天知監督の日本一をどの程度記憶しているか、今となっては知る由もないが、よしのの父がまだ少年だった時、ドラゴンズは(にっくき)讀賣巨人軍のV10を阻止したのだと言っていた。

よしのがもし我が子にドラゴンズ愛を語る時、真っ先に名前が挙がるのは落合博満監督だろう。初めて目にしたのが7年連続でBクラスに沈む、今や斜陽の?球団になってしまったドラゴンズであったならよしのはここまでのファンにはなっていなかっただろう(よしのは来年以降ドラゴンズの黄金期が来るであろうことを信じてやまないのであるけれど)。

 

父がV10を阻止したドラゴンズに手に汗握ったように、よしのは落合監督の下で、セ・リーグでも「不気味な」異彩を放っていたドラゴンズを、まず好きになったのだ。

よしのが物心ついて初めて目にしたドラゴンズの監督は山田久志監督だった。V9時代のエース、そしてドラゴンズの誇る名監督、星野仙一はなぜか阪神の監督をしていた。岩瀬はまだ中継ぎエースだった。抑えは大塚、谷繁はまだ背番号7、立浪が中軸を打っていた。Kevin Millarは来なかった。

 

よしの少年が古本屋で買ってもらった、今となっては40年くらい前のプロ野球の本には、当時の名選手がカラー写真で載っていた。讀賣の江川、西武の東尾、広島の北別府、阪神の田淵、阪急の福本、南海の門田・・・よしのはこの本のおかげで若干昭和のプロ野球に詳しい。

中日の選手で唯一載っていたのが他ならぬ落合博満選手であった(門田の名前は落合をパクっとると悪態をついていた)。したがって幼稚園児~小学校低学年のよしのの知っているドラゴンズOBは落合と星野、精々谷沢か高木守道くらいなもんである。

その一人(しかもカラー写真で見た!)落合が、監督になるというのである。当然まだかわいかったあの頃のよしのは「この人知ってる!」となったのだ。彼が開幕投手に川崎憲二郎を起用するなどと「オレ竜」を貫くようなややこしい人であることも知らず・・・

 

落合監督はいきなり優勝した。その次の年には横浜からタイロン・ウッズが来た。あとはここにいちいち書くほどでもない。落合竜は常勝軍団になった。

 

「1番荒木が塁に出て

 2番井端がヒットエンドラン

 3番立浪タイムリ

 4番ウッズがホームラン

 いいぞ!頑張れ!ドラゴンズ

 燃えよドラゴンズ!!」

よしのがCDで買った燃えよドラゴンズ2005ver.の一節である。今思えばあの頃(計算上は7歳である)のよしのはドラゴンズが強いのは当たり前だと思っていた。広島球場で川上憲伸に握手してもらったのも思えばこの頃だ。ドラゴンズは強い。カープベイスターズは眼中になく、とにかくジャイアンツは殺すほど憎かったし、タイガースは生意気なチームだと思っていた(スワローズは・・・嫌いではなかった)。

 

ある年、ドラゴンズは日本一になった。日本一を決めた試合で、先発の山井大介(2020年現在なんと彼は現役である!)は8回まで完全試合を演じて見せた。その日の相手先発はあのダルビッシュ有だった。6回あたりから我が家は騒然としていた。完全試合と日本一が同時に観られるかもしれない・・・

 

8回が終わったとき、不意に父が「9回は岩瀬やろ」と言った。よしのは「それはいかんやろ」と食い下がるが、父は「いや。落合なら絶対に岩瀬を出す」と言ってきかなかった。その後、9回裏のマウンドに岩瀬が現れた時の父の勝ち誇ったような顔をよしのは未だに忘れることができない。

 

父とは我が人生の指針であると思っていたよしのにとって、これは衝撃的だった。よしのは何故か(今思えば、我が父のろくでもない姿を見れば酔狂にも映るが)落合監督が父と重なった。落合監督がよしのの人生の指針となった瞬間が、この日本シリーズでの完全試合継投劇にあるのだと、今にして思うのである。

 

・・・いや、過去に縋るのはよそう。今となってはドラゴンズは12球団で最もAクラスから遠ざかっている。落合監督麾下のドラゴンズを知っているからこそ、今はその幻影にしがみついていてはいけないと分かるのだ。あの時眼中にもなかった広島東洋カープは3連覇を果たしてしまった(よしのは2016年の優勝を、なぜか箱崎お好み焼き屋で見た)。横浜は横浜DeNAベイスターズとして、新時代の球団として新たな試みを進めている。低迷するドラゴンズに思うのは、落合監督が標榜した「勝つことが最大のファンサービス」という言葉である。ナゴヤドームのビジョンを大きくすればいいのか、客の入るようなイベントを何か企画すればいいのか、よしのはそうは思わない。よしのは「強いドラゴンズ」が見たい。3年連続日本一???そんな福岡の球団を止めるのは我らがドラゴンズしかいないだろう。

 

福留?タイロン?ブランコ?森野?和田?立浪?川上?岩瀬?吉見?浅尾?

もう時代は終わったのだ。

 

大野雄大、エースになってくれ。

柳裕也、沢村賞を取ってくれ。

高橋周平、首位打者に輝いてくれ。

Dayan Viciedo、本塁打王を取ってくれ。

京田陽太ゴールデングラブを取ってくれ。

岡田俊哉、藤嶋健人、最優秀中継ぎ、セーブ王を奪ってくれ。

大島洋平首位打者を取ってくれ。

平田良介ベストナインに入ってくれ。

 

「燃えさかる男の 炎をかざして

 戦う 我らの 若き戦士たち

 嵐を呼べ 今の 君たちは竜だ

 勝利はすぐそこに 我が中日ドラゴンズ

2020年1月13日

せっかくだからここではよしのの都合だけで成り立つ話を書こうと思う。Twitterに結構前から飽きているのだ、ライブの告知がなければあんなものとっくに辞めてるだろう。

昨年の後半戦の怒涛の快進撃、そして奇跡のワールドチャンピオンを目撃してしまって以降ずっとワシントン・ナショナルズを応援している(かと言ってドラゴンズファンは辞めていない)。MLBストーブリーグは動きが大きくて退屈しない。Natsは今オフにFAの選手がやたら多く、せっかくファンになった選手たちもいなくなってしまうのかと思っていたものの、エースのStrasburgが史上最高額(もっとも数日後にNYYに移籍したColeに抜かされていたと思う)で残留したのを皮切りに、Kendrick、Gomes、As、Hudson等多くのワールドチャンピオンの立役者たちが残留してくれたのでひとまずは安心というところだ。Rendonが抜けてしまったのは結構な痛手だが、Donaldsonが取れれば万々歳、そうでなくても穴を埋められるだけの補強はできているのではないかと思う。Hudson残留、因縁のあるHarrisの獲得でリリーフは何とか厚くなってきているので投手補強はいったん終了、野手もDonaldsonとZimmermanの再契約次第では現状の布陣で開幕を迎える可能性もあるのではなかろうか。完全に余談だがよしの家のHDDにはワールドシリーズ第7戦が266分にわたって録画されており、容量を圧迫している。

 

2019年の終盤にriverside yoshinoは結構久々にダメ出しをされた。こういう話はよしの的に絶対に人に言いたくない、そりゃ一人でロックンロールもどきでもやってれば悩みの一つや二つあるけれど、観に来てくれる人にそういうのをグチグチ言ってしまうのはかなり不誠実だと思う。別によしのも全然売れっ子とかではないが、そういうところの筋は通しながらやっていきたい。ということで昨年末から今年にかけてはよしのも猛練習の日々である。猛練習をすれば僅かな期間でもなんとなく進歩が得られるものだ。毎日できれば相当なもんだろう。

基本的によしのはライブ後なんかに「まあよしのはそのまんま好き勝手やってればいいと思うよ~~」と言われることが多く、ダメ出しなどはされることが少ないのだが、1人でやってれば自らを客観視できないことが一番怖いのだ。好き勝手やればいいなんてことは分かってるからよしのを観てどう思ったのかを言ってくれる人を、よしのは大事にしたいと思う。

ブライアン・ジョーンズ

ブライアン・ジョーンズ

The Rolling Stonesの初代リーダー。

ブルースのカバーバンドだった最初期のストーンズの音源を聴けば、彼がどれだけブルースが好きだったのか、そしてストーンズの顔として仁王立ちしている様がすぐ目の前にあるように分かる。

明らかに1人だけ洒落てて、金髪で、ギターも上手くて、ハープもシタールもどうかすると木琴も弾けてしまうブライアンがどう考えても抜群にカッコよかった。

 

ミックやキースが曲を書くようになり、曲の書けないブライアンはストーンズの隅に徐々に追いやられていった。薬も増えた。キースには女も寝取られた。

映画「One Plus One」やR&R Circusのブライアンを見ていると、よしのは悲しくなる。Begger's Banquet収録のNo Expectationsはよしのは辛くなって最後まで聴けない。プライドが高く、それでいて複雑な性格のブライアンが変化するストーンズに乗り遅れ、自らが生んだストーンズに惨めにも敗北したブライアンの姿が痛々しいほどよく分かった。その後ブライアンはプールに沈んで死んだ。

 

よしのの最も好きなロックンロールバンド、ローリング・ストーンズの最も好きなメンバーはと問われれば、よしのは迷わずブライアン・ジョーンズだと答える。よしのはまだ27歳で死ぬことをあきらめていない。

クレイジー・ナックルボーラー

日本ではドラフト会議が終わり、アメリカではNatsが初のリーグ制覇、ア・リーグでは名門NYYと最強HOUがしのぎを削っている。

 

よしのは野球選手で例えるとナックルボーラーだと思う。なんで野球選手に例えるのかというとそういう妄想が好きだからである。

ナックルボール」については以下のリンクを参照されたし。

ja.wikipedia.org

よしのが初めてみたナックルボーラーは元BOSのティム・ウェイクフィールドだった。休日にキャッチボールをするお父さんのような投げ方と体型で、並み居るスラッガーを苦しめているのだった。100マイルとは程遠いスローボールになぜ手も足も出ないのか不思議でたまらなかった。

ウェイクフィールド、300勝のナックルボーラーであるフィル・ニークロサイ・ヤング賞のR.A.ディッキー、そしてトム・キャンディオッティ、チャーリー・ハフなど(断っておくとこれらの投手のほとんどをよしのは見たことがない)ナックルボーラーの投手としての生い立ちを知ると、ナックルボーラーは所謂「普通の野球選手」にはなれなかった人たちの最後のあがきであると分かる。こんな奇天烈なスローボールを投げることでしか、猛者ひしめくMLBでは生きていかれないという覚悟の現れだった

よしのは所謂「普通のバンドマン」にはなれなかった。バンドマンでもなければシンガーソングライターでもなければただの学生にもなりきれない人間の成れの果てが、riverside yoshinoだったと思う。

こんな奇天烈なスローテンポ・ソングを演ることでしか、猛者ひしめく福岡アンダーグラウンド・シーンでよしのは生きていかれない、という覚悟をよしのはしているつもりだが、よしのはサイ・ヤング賞を獲れるだろうか。300勝できるだろうか。

 

ちなみに今年のドラフトにはよしのはかからなかった。来年までにナックルボールを習得してアメリカに渡ろうと思う。

日本金平党讃歌

小学生のとき、マジで将来の夢は政治家です、という時期があった。その割には政治のことなど全く勉強してなかったし、どうしてなりたかったのか今はもう覚えていない。

その当時、よしのは日本金平党という政党を立ち上げた。10歳とかだったと思う。最初のマニフェストは「給食の牛乳を麦茶にしよう」だった。昔のよしのは可愛らしかった。

去年の夏ごろ日本金平党のことを思い出し、この曲を書いた。今となってはマニフェストなどない。強いて言うなら「党員みんなで幸せになろう」くらいだ。

党の思想についてはriverside yoshinoのライブを観に来ればだいたいのことは分かるし、来なければたぶん分からない。みんなに党員になってほしいが、色々ガタガタ抜かすタイプの人だけはお断りさせてもらっている(単純によしのはそういう人と一生分かり合えないので)。

右とか左とかアナーキストとか、どうでもいいと思う。アイドルでも野球チームでもバンドでも友達でも、心から好きなものがあれば大抵のことは何とかなると、日本金平党は信じて疑わない。

 

追記

今日10/13のライブには、大昔のお友達が来てくれた。リアルタイムで日本金平党を知る数少ない人だ。今年でなくなってしまった若葉町のマルタマのことを思い出しながらこの曲を最後に演った。

 

ライブ日程

10/29 ラウンジサウンズ

11/27 @UTERO