背番号3

 ちょうど10年前に亡くなったよしのの父は、立浪の背番号3のユニフォームを着て現地に観戦しに行っていた。

 中日ドラゴンズの背番号3は高橋周平だ。生まれてからずっと立浪の背中を追い続けているよしのにとっても、中日ドラゴンズの背番号3は高橋周平だ。

 

 周平が喜んでいる姿より、苦しんでいる姿を見ている時間のほうが長い。

 よしのがふるさと長崎を出る前日の試合で、絶体絶命の中逆転グランドスラムを放った男。

 ちょっと前まで高校生だったのに、よりにもよってよしのがテレビで観ている試合でプロ初ホームランを打った男。なのに、期待通りの活躍ができないと逆風を浴び続けている男。

 

 今日だけで逆風を跳ね返せるわけじゃない。

 

 それでも、よしのにとってドラゴンズの背番号3は高橋周平だ。

Bruce Springsteenのギター

 ロックスター、中でもギタリストには、代名詞的な愛機が数多くある。

 Keith Richardsの6弦をサドルごと外してしまったテレキャスター(MicowbarとMalcomの2本あるらしいが見分け方は分からない)とか、Jimmy PageのDragon Tele(Yardbirds〜Led Zeppelin初期まで活躍している)とか、Willie Nelsonの穴の空いたガットギター(Triggerという名前がイカす)とか、Joe Strummerのデタラメフィニッシュなテレキャスターとか、Rory GallagherのストラトNeil Youngレスポール、鮎川誠のレスポールカスタム、田渕ひさ子さんのジャズマスター…と枚挙に暇がない。テレキャスターフリーク故に例示の仕方が偏っているのはご容赦いただきたいが…

 

 そんなロックスターの愛機たちの中に、Bruce Springsteenテレキャスターは当然入ってくると思う。アルバムBorn To Runのジャケットのアレだ。

 

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Tenth Avenue Freeze-Out - YouTube

 

 ギターを弾く人なら誰しもがこんな風にギターを構えてみたい!!と思うカッコよさ、テレキャスターといえば…?の問いに彼の名を挙げる人が結構いるのも頷ける。

 

 やっぱりBruce Springsteenはカッコいいよね、で終わってもいいが、腐ってもよしのはギタリストの端くれなので、敢えてここで問題提起をしたい。

「そうはいっても彼のギターの音、ほんとにちゃんと聞こえてる?」

 

 Bruce Springsteen(以下Boss)がギタリストとして二流だ!とかそういうことが言いたいのではない。Prove It All Nightのギターソロなんかたまげるくらいいい音がしているのだから。

 

Prove It All Night (Phoenix, 78) (from Thrill Hill Vault 1976-1978) - YouTube

 

 ライブ映像を観れば分かると思うが、あまりに暑苦しいギターソロパート以外で彼の音があんまり聞こえないのだ。耳が悪いのかもしれない。

 確かにBossのE Street Bandは、ギターがサウンドの中心にいるタイプのバンドではないと思う。Phil Spectorのwall of soundがBossの好みということもあり、割と鍵盤やホーンがしっかり入っている。そのうえギタリストにはBossの相棒、というか舎弟のSteve Van Zandtがおり、そこに激渋サムピッカーNils Lofgrenまでいる。最近(といってもアルバムWrecking Ballは10年以上前の作品だ)ではそこにTom Morelloまで加わるわけなので、あくまでリードシンガーであるBossのギタリストとしての比重はあんまり重たくはないことが想像できる。 しかし、一部の曲でソロをとるとはいえBossのギタリストとしての本職はあくまでリズムギターだろう。そういった側面で印象的なプレイは全然思いつかない。

 先に挙げたようなギタリストは、ロック史に残る名演をそのギターで生み出してきたからこそ、愛機であるギターとセットで記憶されるようになったはずだが、Bossに関してはそうではない。さっきのProve It All Nightが名演、名曲であることは疑いようのない事実だが、Bossの代表曲に挙げる人は多くないだろう。あれはBorn To Runのジャケットになったギターなのだ。よしのはRamonesの革ジャン!とかマーシーのバンダナ!とかと同じ括りなんだと思っている。ギターだってファッションの一部だ。

 

 これをここまで読んでいただいた物好きなロック好きの諸君は、是非よしのにBossのギタープレイについて思うところを教えてほしい。彼のカッコいいテレキャスターをファッションの一部として片付けたくないのだ。

 

MUSIC BAR JAMのKing Yoshino Rodriguez Ⅲ

 最近よしのが大変お世話になっているお店、MUSIC BAR JAMで、一応は定期的にライブイベントをやるようになった。イベント名を特に決めているわけではないので、「MUSIC BAR JAMのキング・ヨシノ・ロドリゲス」と勝手に呼んでいる。

 コンセプトは「よしのと誰かのライブを、ゆっくり、じっくり噛みしめる」ことだと思っている。基本的にはよしの+ゲスト一組でやっているが、ライブハウスよりも近い距離で、カジュアルな雰囲気で、腰の据えやすい場所で聴くと、その人のコアの部分が露わになるんじゃないかと思っている。そういうコアの部分に魅力を感じている人をゲストで呼んでいきたい。

 

 第一回は昨年11月によしのが一人で2時間くらい演奏した。二回目は1月篇、石田ラベンダーさんに来てもらった。あんまり共通点がなさそうに見えがちかもしれないが、実は石田さんとよしのは似た者同士なんじゃないか?と疑っていたので出てもらった。フタを開けてみればスタイル的には全然違っても、よしのと石田さんの地続きな部分も感じ取れた1日だったと思う。

 

 と、いうような感じで、出演者のスピリットとかアティテュードの部分がまぜこぜになって結果的に生じる味わいを噛み締める、というのが醍醐味なイベントだと思う。あと、主催者であるよしのの「本人ですら未だに掴めていない」人物像の研究にも是非役立てていただければ幸いである。

 

 次回は3/21にオクムラユウスケさんをお迎えする。初めて見たのは6年くらい前で、そのときは&Not Sportsだった記憶がある。その時はとてつもない衝撃とほんの少しのシンパシーを感じたが、その後何度か共演する中でよしのが感じ取った、あの激烈大迫力パフォーマンスの奥に見え隠れするユウスケさんのブルースの正体を突き止めたいと思い声をかけた。

 祝日の夜、重たい何かがもたらされる日になりそうな気がなんとなくしている。当日は投げ銭ライブです。
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「音楽のための場所」に「音楽をやる人」と「音楽を聴く人」だけが存在するプリミティブなやり取りを楽しみにしています。

 

 

『発破』vol. 1



 半年前に沙摩柯というバンドができた。

 バンド名の話をしたとき、我らがドラマーモーリーは漢字の名前を推してきた。地元で有名だった暴走族のチームの名前を出したりしてくれた。そういえばよしのは漢字の名前のバンドをあまり知らなかった。

 二人とも三国志が好きなので、最終的には英雄たちが次々と命を落とし混迷の世に差し掛かる時代に、甘寧を討ち取る場面でだけ出てくる謎の蛮族の名前を拝借することになった(ちなみに時点の候補で「於夫羅」というのもあった)。

 そもそもバンド名が知っている個人の名前なので不思議な感覚があったが、ようやく最近このバンド名も馴染みつつある。よかったよかった。

 

 基本的によしのはその気にならなければ何もできないので、その気にならないことが多すぎる浮世では地獄のような暮らしをしている。従ってよしのにとっては身近な「その氣になること」の有無が大きなカギである。

 幸いよしのにはそれが皆無なわけではないのでどうにかこうにかなっている。否、客観的にはどうにもなっていないのかもしれない。よしのの夢は、毎朝起きたら「その氣」になっていることだ。

 

 沙摩柯というバンドをやっていると、よしのも日常的に「その氣」になれる可能性が出てきたのではないかと思う。我らがパワードラマー、モーリーのおかげだと思う。まだ見ぬ人がよしのを待つ。

 

 よしのが、沙摩柯が、そしてみんなが「その氣」になる端緒になる、であろう日がそろそろやってくる。吾々の日常的な「その氣」の門出を祝おう。

 


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長縄大会

 小中学生のクソガキだった時分は「歴史」になりつつある。

 

 小学生だったとき、とある教育実習生の先生から「私30歳までに結婚してなかったらよっしー(よしのの当時のニックネームである)と結婚する!!」と言われたことがある。随分前に先生の苗字は変わってしまったが、年の差を考えれば妥当な決断だと思う。

 

 大学に入学したすぐの頃、その先生の家に遊びに行った。よしのの今の家から割と近いところだ。雨が降っていた。先生が家庭を持つ、イコール結婚云々の話をしたお別れ会の日もそうだった。そういえばお別れ会のちょっと後、先生に相見えようとクラスメイトのIくんと乗り込んだ長大の学祭の日もやはり雨だった。同じようにIくんと、在学中の先生の家に突撃したその日も雨だった。

 

 よかったと思う。全部。今となっては登場人物全員が道を違えてしまったが、よかったと思う。Iくんも先生も今何をしているかよしのは知らないがそれは向こうとて同じだ。10年以上経てばそういうものだ。

 

 しかし、我々の人生が交わったあの時のことをIくんも、先生も忘れないでほしい。みんなで一緒に長縄大会で300回跳んだことも。

イカれたジジイ

 「ジジイ」は侮蔑的な意味を持つことが殆どだが、「ババア」に比べれば幾分年長者へのリスペクトが感じられる言葉だと思う。よしのの母はかつて、反抗期を迎えるであろう息子に「クソババア」と言われるのを楽しみにしていたそうだ。

 

 シーナ&ザ・ロケッツのギタリスト鮎川誠が、浴びた全身が爆ぜてしまうような爆音を轟かせた後、アンプのノブを戻すことなくシールドを引き抜いた瞬間をよしのは目撃したことがある。鮎川誠でなければライブハウス側から大目玉なのではないかと思った。

 

 よしのがこれまで出会った人たちの中には、こういう「イカれたジジイ」がたくさんいる。鮎川誠のイカれぶりを見た数分後、よしのは彼と言葉を交わした。大学、学部、そして研究室の後輩であること、貴方のR&Rに心酔していることetc.を話したつもりだが、それが鮎川先輩本人に伝わったかどうかはついぞ分からないままだ。

 よしのと話していた先輩のその姿はとても「チューブアンプのノブをゼロにすることなく引き抜く人」には見えなかった。あろうことか鮎川先輩は「勉強頑張ってね」とよしのに投げかけた。2年後、よしのは専攻賞とやらを手土産に卒業することになる。

 よしのは鮎川先輩のような「イカれたジジイ」に憧れてしまった。同時に「まともなジジイ」を最大限に憎むようになってしまった。その上で、「まともなジジイを『ただまともである』という理由だけで尊敬しているフリができる」ようになってしまった。由々しき事態である。

 

 10年ほど前からよしのは27歳で死ぬと言ってはばからなかったが、今やそんなことは馬鹿の戯言だと理解する。伝説になるのなら若くして散るのが一番手っ取り早いからだ。

 

 しかしよしのは伝説になりたいわけじゃない。よしのを憶えててほしいのだ。「生きてればこうだった」的な妄想でなく、「よしのはこういう奴だった」という事実として。語り継がれるための手っ取り早い方法を探すより、よしのがよしのとして生きる方が、自ずとその願いは叶う気がする。

 

 よしのの将来の夢は諸先輩方のような「イカれたジジイ」です。

 

 

 

もっとおちつきたいのか?

 よしのは十二支の中で最もカッコいい寅年生まれなので密かにそれを誇りにしていた(産まれたときに産婦人科でトラのぬいぐるみをもらったが、よしのはそれをずっと猫だと思い込んでいて、「ジェス」と名付け可愛がっていた。ポストマン・パットで検索を)が、よしのの歳男期間が終了した。

 トータルとしてはいい歳男だったと思う。今まであっぱらぱーだった分のツケが回ってきたこともあり、嫌なことはそれなりに増えたが、これまで感じたことのない幸せを数え切れないほど味わうこともできた。

 

 12月、よしのは9本のライブを行った。11月の終わりにはお世話になっているMUSIC BAR JAMでなんと2時間超のワンマンライブを敢行した。観に来てくれたみなさんありがとうございました。そんなこんなで、昨年の終盤は怒涛のように過ぎていった。

 振り返ると頑張りすぎた感じも否めないが、むしろ「こんなに楽しくていいんですか?」という気持ちの方が強い。1ヶ月あまりでこの頻度でライブハウスで遊ぶことはそうそうないと思うし、2度目の歳男を終えた身としてはずっとそんなことをしてたら身体が悲鳴を上げるであろうことくらい容易に想像がつく。しかし、「今日がずっと続けばいいのに」と思うことが明らかに増えてきている。それ以外の日常が地獄の様相を呈していることの裏返しかもしれないが。

 

 よしのは人と会うのが少し苦手である。気を張ってしまうからである。かといってよしのがすごく気が利く人なのかと言われればそうでもないが勝手に気を張ってしまうのである。正月に里帰りしたときも、家族の中でずっと緊張の糸が微妙に張っていた(注:張り詰めてまではいない)。正月、面白可笑しかったけど多少なりとも傷ついたな。

 

 昨年は多くの人と出会った。ライブハウスの人、遠くから来た対バンの人、打ち上げにいた人、お盆に会えなかったけど暮れに無事会えた人、福岡市南区、VOX-AC30…死ぬ前の走馬灯に出てくること間違いなしのラインアップである。こんなことをしてたら寿命が伸びてしまったのでよしのは27では死ねないと思う。

 

 今年に入ってからも、ミランバーズのギタリストとしては最後の夜に大はしゃぎをした。名残惜しくて結局最後の最後まで残った。その翌々日には沙摩柯でライブをした。寂しかったのでユーテロが閉まるまで残った。新年も上々の滑り出しである。

 2023年、キング・ヨシノ・ロドリゲスの目標は「とにかくみんなに会いに行くこと」である。毎日が終わってほしくない日になるように。まだまだ落ち着きたくない。